Music History〜音楽史〜

古典派

古典派の時代はバッハが亡くなった18世紀半ば頃から19世紀の初頭にロマン派がでてくるまでの時代です。

ソナタ形式の確立 

18世紀初頭頃まではソナタは形式が決まっておらず3,4曲の速さの違った曲を連ねたものでした。
そこでバッハの次男エマヌエル・バッハ(1714〜1788年)はソナタの形式を確立します。
第一楽章の基本的形式を2つの主題を提示し、それらを色々な形に変形し展開し、また元の形に再現するものにした。
第二楽章には緩やかな曲を第三楽章にはロンドなどの速い曲を入れるという風にしました。
ソナタ形式は他の作曲家からも考え出され、それは交響曲や協奏曲、室内楽などにも同じように用いられるようになりました。
そしてさらにハイドンやモーツァルトによって発展していきます。

グルック  

 クリストフ・ヴィリバルト・グルック(Christoph Willibald Gluck 1714〜1787年)は
オーストリアの田舎の森林看守の子として生まれますが、
幼い時から音楽を学びイタリアでオペラ作曲家としての名声を得て
40歳のころにはウィーンの宮廷歌劇場の楽長になります。
 ウィーンの社交界で文学者や芸術家と交わり詩人メタスタージオのオペラ改革の意見に影響を受けて、
1762年に新しい様式のオペラ<オルフェオとエウリディーチェ>を作りました。
今までのオペラは劇と音楽が遊離していて音楽も歌手の技巧を見せびらかすようなもので「声の軽業の陳列」とまで批判されていました。
グルック以前のオペラが現在ではあまり上演されずアリアが数曲取り上げられるだけなのはこのためです。
そこでグルックは劇が音楽によって損なわれず、音楽は劇の内容を強く印象付けるようにして劇と音楽の一致を目指しました。

〜グルックの作品〜


・オペラ<オルフェオとエウリディーチェ>
(フルートの独奏曲として<精霊の踊り>やアリア<エウリディーチェを失いぬ>が有名>
・オペラ<アウリスのイフィゲニア>

PageTop このページのトップへ

ハイドン 

 フランツ・ヨゼフ・ハイドン(Franz Josef Haydn 1732〜1809年)はオーストリアの車大工の子として生まれました。
ハイドンは幼い時から音楽の才能を表しステファン教会の楽長に見出され、教会の合唱隊員として約10年過ごします。
教会で声楽、ヴァイオリン、クラフィーアを学びます。
その後個人教授をしながら生活し独自で作曲を学び、エマヌエル・バッハのソナタを研究しました。
 ハイドンの作曲家としての名声は次第に高くなりハンガリーの最も高貴な家柄の
エステルハーツィ公にかかえられ楽長として宮廷の管弦楽団、歌手の指導、作曲活動を行いました。
彼は交響曲、協奏曲、室内楽、歌曲、独奏曲などおびただしい数の曲を作っています。
特に交響曲は100曲以上も作りました。
またハイドンが49歳の時、25歳のモーツァルトと出会い交流が始まります。
 58歳の時ロンドンに赴き6曲の交響曲を発表しオックスフォード大学から名誉学位を受けました。
ウィーンに帰ってからは1797年にはオーストリア国歌を1798年にはオラトリオ<天地創造>発表しました。
1809年77歳でこの世を去りました。

〜ハイドンの作品〜

・交響曲<驚愕>
・ 〃 <軍隊>
・ 〃 <時計>
・オラトリオ<天地創造>
・トランペット協奏曲
・弦楽四重奏<皇帝>
・  〃  <ひばり>

PageTop このページのトップへ

モーツァルト 

 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756〜1791年)はオーストリアのザルツブルクに生まれました。
父のレオポルトは優れたヴァイオリン奏者でモーツァルトは幼児期から音楽教育に恵まれ
3歳でクラフィーアを弾き始め7歳で小曲を作曲し15歳までにはあらゆる形式の作品を発表しています。
父は彼の演奏料を財源としていたので6〜25歳までの間に11回の演奏旅行をしてウィーン、パリ、ロンドン、イタリアの各都市に赴きました。
 26歳のときコンスタンツェ・ウェーバーと結婚しました。
モーツァルトは名声にそぐわない貧乏生活を送っていましたが、その中でも数々の名曲が生まれています。
彼の作曲家としての頂点は1786年から亡くなる5年間で<フィガロの結婚><魔笛><ジュピター>などを作っています。
 1781年に見知らぬ使いが現れ、ある人のために鎮魂歌(レクイエム)を作ってほしいと依頼します。
体調を崩していたモーツァルトはこの鎮魂歌を書いている途中、自分のために地獄の使者が現われ
作らされているのだという妄想にとりつかれ未完のうちにこの世を去りました。
この鎮魂歌はモーツァルトの弟子が残りを仕上げ完成させました。

〜モーツァルトの作品〜

・オペラ<フィガロの結婚>
・ 〃 <ドン ジョバンニ>
・ 〃 <魔笛>
・交響曲<ハフナー>
・ 〃 <リンツ>
・ 〃 <プラハ>
・ 〃 <ジュピター>
・ピアノ・ソナタ K.331(トルコ行進曲つき)
・ピアノ協奏曲<戴冠式>

PageTop このページのトップへ

ベートーヴェン 

 ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770〜1827年)はドイツのボンに生まれました。
父はテナー歌手でしたが大酒飲みで息子を天才に育てて楽をしようとベートーヴェンに厳しい音楽教育を施します。
ベートーヴェンには才能があったため8歳のころには人前でハープシコードを演奏し10歳には小曲を作曲しています。
14歳のころには宮廷の副オルガン奏者になって定収入を得て貧しい家計を助けました。
 22歳のころにはちょっとした作曲家として名が知れていましたが、さらに研究するためにハイドンに作曲法を教わります。
しかしハイドンは大作曲家でしたが良い教師ではなく密かにサリエリやシュンクについて作曲法を学びました。
 ピアニストとして作曲家として名声がいっそう高まってきましたが、30歳頃になって耳の疾患にかかってしまいます。
ウィーンの郊外のハイゲンシュタットに転地している時に書いた遺書には悲痛な悩みが吐露されています。
(これが有名な「ハイゲンシュタットの遺書」です。)
 このころからベートーヴェンの作風は変わっていきます。
晩年のハイドンやモーツァルトの型にしたがって古典的であった作風から抜け出しロマン主義へと新しい様式を切り開いていきます。
ベートーヴェンの耳は全く聞こえなくなり、病気がちになったり、その上経済上の困難も重なり苦痛は絶えませんでした。
それでも後期の五大ソナタや交響曲第九番などの傑作を書き上げました。


〜ベートーヴェンの作品〜

・交響曲…第3番<英雄> 第5番<運命> 第6番<田園> 第9番<合唱>など9曲
・ピアノ協奏曲…第3番 第5番<皇帝>など5曲
・ピアノ・ソナタ…第8番<悲愴> 第14番<月光> 第17番<テンペスト> 第23番<熱情>など32曲
・ヴァイオリン・ソナタ…第5番<春> 第9番<クロイツェル>など10曲
・オペラ<フィデリオ>




inserted by FC2 system