Music History〜音楽史〜

近現代

19世紀末に絵画の世界で自然の形をそのまま描くより、
自然のものから受ける印象を描くのが本当の絵画だという考えが生まれました。
これが印象派の始まりです。音楽も絵画の影響を受けて大きく変化しました。

目次:印象派  ドビュッシー  ラヴェル  サティ 


第一次大戦後にはフランス六人組が誕生しました。
ミヨー、オネゲル、プーランク、デュレ、タイユフェール、オーリックです。
彼らはロマン派や印象派を批判し単純で直截的な音楽を目指しました。
また絵画の世界では印象派を批判し自分の心の中に持っているものを自由にそのまま描くべきだ
という考えを持つ表現派が現れ、音楽の世界でもそれに刺激されシェーンベルクを中心とする表現派が現れました。
表現派音楽の特徴は「無調性」で、無調性の音楽では主和音そのものがなく
曲の始めの感じも終わりの感じも無いような妙な感じを受けます。
20世紀に入ると昔古典派が用いた色々な形式を現在に生かそうという試みがありました。
それがプロコフィエフやブゾーニを代表とする新古典派です。

一方、アメリカも急激な発達を見せ、ヨーロッパ音楽はもちろん多くの民族の音楽が融合しアメリカ特有の音楽が生まれました。
第二次世界大戦後はヨーロッパの優れた音楽家がアメリカへ渡っています。

目次
シェーンベルク
ベルク
バルトーク
プーランク
ストラヴィンスキー
ラフマニノフ
スクリャービン 
プロコフィエフ  
ヒンデミット
ガーシュウィン


ドビュッシー

 ドビュッシー(C.A. Debussy 1862-1918)は印象派の先駆者といわれています。
ドビュッシーは「全音音階」を考えだし調性から受ける束縛をなくしました。
また不協和音を用いることで和音の色彩を豊かにし、
ヨーロッパ音楽に異国的な雰囲気を取り入れ従来のヨーロッパ音楽に変化をもたらしました。

〜ドビュッシーの作品〜
・牧神の午後への前奏曲
・海
・歌劇「ペレアスとメリザンド」
・ピアノ曲「版画」

ラヴェル

 ラヴェル(M. Ravel 1875-1937)はフランスのシブールに生まれ
パリ音楽院でフォーレに作曲を師事しました。
ローマ大賞に5回挑戦しましたが5回とも落選。
このことはコンクールのあり方に物議を醸し問題になりました。
ドビュッシーと同じく印象派の代表的な作曲家ですが印象派とは言えない面もあります。
〜ラヴェルの作品〜
・クープランの墓
・亡き皇女のためのパヴァーヌ
・水の戯れ
・夜のギャスパール

サティ

サティ(E.Satie 1866-1925)はノルマンディーのセーヌ河口のオンフールで生まれました。
10歳ごろ教会のオルガにストからピアノの手ほどきを受けます。
パリ音楽院に入学するも途中で音楽院を抜け出し、志願兵に応募し歩兵連隊に加わりまが軍隊生活に慣れず除隊します。
その後キャバレー「黒猫」でピアノ奏者として生計を立てたり、秘密結社「薔薇十字会」の作曲家になります。
ドビュッシーとも交流がありました。
〜サティの作品〜
・3つのジムノペティ
・乾燥胎児
・ヴェクサシオン
・ジュ・トゥ・ヴ

シェーンベルグ

 シェーンベルク(A.Schonberg 1874-1951)は12音音楽を確立しました。
12音音楽とは1オクターブを構成する12音を全て一度ずつ使用し「セリー」という音列をつくり、
これを組み合わせることによって作られた音楽です。
シェーンベルクの技法は弟子であるウィーベルンやベルクによって引き継がれました。

〜シェーンベルクの作品〜
・歌曲「月に憑かれたピエロ」
・弦楽六重奏曲作品4番 「浄夜」
・室内交響曲 作品9

ベルク

ベルク(A.Berg、1885-1935)はウィーンの裕福な家に生まれました。
兄がシェーンベルクののもとにベルクの作品を持ち込みシェーンベルクやウェーベルンとの交友が始まりました。
戯曲「ヴォツェック」を見たベルクは無調音楽でこのオペラを書きます。
〜ベルクの作品〜
・歌劇「ヴォツェック」
・歌劇「ルル」
・ヴァイオリン協奏曲

バルトーク

バルトーク(B.Bartok 1881-1945)はピアノ教師であった母からピアノの手ほどきを受けました。
18歳のときブダペスト王立音楽院に入学。
24歳の時、ルビンシュタイン音楽コンクールのピアノ部門に出場するも2位(1位はバックハウス)でした。
ハンガリーの作曲家で民俗音楽学者でもあるコダーイに影響されハンガリー内外問わず農民音楽の収集を行います。
彼の作品にはその影響が多く見られます。
〜バルトークの作品〜
・ミクロコスモス
・歌劇「青髭公の城」
・管弦楽のための協奏曲

プーランク

フランス6人組の一人プーランク(F.Poulenc 1899-1963)は幼い時に母親からピアノの手ほどきをうけ、
後にスペインのピアノスト・ヴィニェスに教わります。
ヴィニェスの紹介によりサティと出会いました。
彼の自由な作風は「モーツァルトの再来」と言われました。
〜プーランクの作品〜
・チェンバロ協奏曲
・バレエ音楽「雌鹿」

ストラヴィンスキー

 ストラヴィンスキー(I.F.Stravinsky 1882-1972)はロシアのオペラ劇場のバス歌手の父の下に生まれました。
法律を学ぶために大学に入りましたが在学中に作曲家になることを決意しリムスキー=コルサコフから作曲法を学びました。
バレエ音楽「火の鳥」「ペトリューシュカ」で成功を収めます。
57歳の頃アメリカへ渡り大学で教鞭をとります。
この頃バレエ音楽「オルフェウス」「ミサ」などを書きました。
〜ストラヴィンスキーの作品〜
・交響曲「花火」
・ペトリューシュカ
・火の鳥
・春の祭典

ラフマニノフ

 ラフマニノフ(S.Rachmaninoff 1877-1943)は母親からピアノの手ほどきを受け、
12歳の時ピアニストの従兄弟に見出されモスクワ音楽院で学びます。
同級生にはスクリャービンがいました。
1897年に交響曲第一番を初演しましたが不評に終わり、神経衰弱を患いました。
後に精神科医ダールと出会い自信を取り戻しました。
その時に彼の代表作である「ピアノ協奏曲第二番」が生まれました。
〜ラフマニノフの作品〜
・ピアノ協奏曲第二番
・交響詩「死の島」
・パガニーニの主題による協奏曲

スクリャービン

スクリャービン(A.N.Skryabin 1872-1915)はモスクワの貴族の息子に生まれ、幼い時からピアノを学びました。
ルービンシュタインに才能を認められラフマニノフとともにズヴェーレフにピアノを学びました。
練習のし過ぎで右手を痛めたため彼の作品には左手を主とした曲が多くあります。
〜スクリャービンの作品〜
・ピアノソナタ
・詩曲
・左手のための前奏曲と夜想曲

プロコフィエフ

 プロコフィエフ(S.Prokofieff 1891-1953)は母親からピアノの手ほどきを受け
13歳でペテルブルク音楽院に入学しました。
1918年ロシアがソ連になったことに危機を感じた彼はアメリカに渡りました。
その途中日本にも滞在しています。その後1933年にはロシアに戻り「ピーターと狼」など作曲しました。
〜プロコフィエフの作品〜
・歌劇「3つのオレンジへの恋」
・ピーターと狼

ヒンデミット

ヒンデミット(P.Hindemith 1895-1963)はフランクフルト歌劇場管弦楽団のコンサートマスターまで勤めたヴァイオリニストであり
第一次世界大戦後には弦楽四重奏団のヴィオラ奏者として活躍しながら作曲しました。
これまで独奏楽器として目立たなかったヴィオラの独奏曲を多く作曲しました。
〜ヒンデミットの作品〜
・歌劇「画家マチス」
・ヴァイオリンソナタ

ガーシュウィン

ガーシュウィン(G.Gershwin 1898-1937)はロシア・ユダヤ系の移民の息子としてニューヨークに生まれました。
彼の代表作「ラプソディーインブルー」はクラシックとジャズを融合した作品として高く評価されました。
またオペラ「ポギーとベス」の中の「サマータイム」は独立して広く演奏されています。
〜ガーシュウィンの作品〜
・ラプソディーインブルー
・パリのアメリカ人



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